春見の手記

まだ何かくかも未定です

雨と自転車とブックオフ

5月6日19:10、GW最終日、今シャワーから上がったあと、PCの前でこれを書いている。シャワーを上がった後、身体が自然乾燥するまで、腰にバスタオルを巻き、ここ1週間読み続けている『村上龍全エッセイ』の最後の対談部分を読み続けていた。そして、今、乾いたその身体でキーボードを打っている。耳に流れている音楽は安田レイの『きみのうた』、ここ最近嵌っている。何故、こんな時間にシャワーを浴びたのか。いや、思わないか。飯を食う前にひと風呂浴びる人もいる、多分、会社帰り、家に着いてすぐシャワーを浴びる人もいるだろうから別にさほど珍しいことではないか。いやあ、自分にとっては珍しい話でね。普段は11時過ぎくらいに浴びるからね。そう、何でこんな時間にシャワーを浴びたかって、ツイさっきまで雨の中車輪を回しながら、ブックオフに行っていたんだ。それで、冷えた身体をよみがえらせるようにシャワーを浴びていた。それは大変な時間だった。以前に訪れたのは、もう2年以上前で、微かな記憶を頼りに自転車を漕いでいたんだ。多分、こっちであっているんだろうかって。こんなに曖昧な記憶でしかないのに、その曖昧な記憶を僕は頼った。でも、それは間違いだった。実際には、真反対に向かっていた。ロス時間は30分。私は、ため息を吐いた。そのため息は虚空に消えた。白くはならない。首元に汗をかき、その汗は雨風で身を冷やす。ああ、俺は何をやっているんだろう、こんなに馬鹿に思ったことは今までには無かったかもしれない。雨の中、自転車を漕ぎ、時には傘を刺す、傘は重いし、錆びた自転車は上手く車輪が回らない、足は痛むばかり、面倒になり、傘を閉じ、その途端雨風は強さを増していく。ばからしい、ただ20%OFFセールの為だけに、何故ここまでして俺は自転車を漕いでいるんだろう、こんなことをずっと思っていた。そして、やっとGoogle mapを開き、書店を入力する。そこから、正規ルートへの道のりは幕を開けた。僕の住んでいる町は坂が多く、ずっと坂だった。傾斜のきつい長い登り坂があり、その後、急な下り坂が長く続く。まるで駱駝の背中みたいな町だ。そして、びしょぬれになりながら辿り着いた。ブックオフ。店内は盛り上がっていた、もう、2年前の記憶になるが、全く人のいなかった店内しか想像が出来なかった、そのブックオフには多くの人影が写っていた。私は、いつものルートで店内を散策する。100円棚をあ行からワ行まで、その上から下までなめまわすように見るのである。最初に目に留まるのは、やはり、赤川次郎、でも私はミステリの方がとことん駄目で、読めないので。残念ながら手にとれないのだ。読めれば、とても楽しいのだといつも思っている。ミステリが何故苦手なのかもブログにて纏めたいものだ。私の目に留丸野は、新井素子さん、今回も『ああ、あった』と手に取った。ひとめにあなたに、今にない簡素なイラスト調な表紙が身をそそる。そして、あらすじを見る。うん、面白そう。ストックだ、そう言って手にとって下に置く。そんな感じで、だらっと見ていく。最近は、昭和文学と、SFが好きなので、その中で気に入ったものを手にしていった。そして、買ったものが

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新井素子さんの『チグリスとユーフラテス』、中島らもさんの『ガダラの豚』、山本弘さんの『アイの物語』、新城カズマさんの『サマータイムトラベラー』、景山民男さんの『遠い海から来たCOO』、三田誠広さんの『いちご同盟』、石原慎太郎さんの『太陽の季節』。こんな感じ。

 まあ、他にも買うか迷った本もあったけどね、景山民男さんの『ティンカーベルモリー』、舞城王太郎さんの『ディスコ探偵水曜日』も迷ったんだ。まあ、いいかって戻したけどね。だから、今回買った本はこんな感じです。いやあ、良い収穫があった。これなら、雨に濡れたかいもあったってね。

 それでは、村上龍エッセイの残り30Pほどを読み進めるとしますかね。

『オタクは絶対見るべきだ』ーレディ・プレイヤー1紹介/感想 (1)

 4/29 昨日、『レディ・プレイヤー1』を見に行った。『レディ・プレイヤー1』はスティーブン・スピルバーグ監督によって創られた今流行りの仮想現実を描いたSF作品である。原案は世界的なベストセラー作家であり日本ポップカルチャーオタクであるアーネスト・クラインの『ゲーム・ウォーズ』。こちらの作品は、SBクリエイティブから出版されている。

ゲームウォーズ(上) (SB文庫)

ゲームウォーズ(上) (SB文庫)

 

 この作品は仮想現実がテーマだと記述したが、Wikiによれば仮想現実とは、物・実物(オリジナル)ではないが機能としての本質は同じであるような環境を、ユーザの五感を含む感覚を刺激することにより理工学的に作り出す技術およびその体系であると書かれていた。簡単に言うと、現実とは違ったもう一つの世界である。

 

レディ・プレイヤー1』は、そんな仮想空間を舞台にしたワンピースさながらの財宝探し合戦を繰り広げる物語なのだ。何故ワンピースなのかって、それは今作の仮想空間である『オアシス』を作った製作者ハリデーが、その死に際に「オアシスに隠された3つの謎を解いた者に、全財産56兆円を与え、オアシスの後継者とする」と言い放ったのだ。それによって、突如として財宝探し合戦が始まるのだ。そして、主人公「ウェイド」もそんな財宝探しに準ずる一人なのである。

 

 そんな映画は荒廃したスラム街の一角から始まる。レディ・プレイヤー1の世界は2045年で、今より27年後、IT技術の発達により、今より貧富の格差が悪化した世界。そんな世界の中で、現実で不幸な身である彼らを平等にするのが、仮想空間『オアシス』の存在なのだ。オアシスでは何でも出来る。外見だって自由自在だ。オアシス内では、各種ゲームによってゲーム内通貨を稼ぎ、その金で彼らは服を買い、髪形を変える。オアシス内の惑星戦場では、銃を以て、剣を以て、時には強化アーマーを着て敵をなぎ倒す。勿論敵から倒されれば、ゲーム内通貨全ては砕け散る。そして、自分の金になる。さながら、実写FPSだ。見ていて思ったのが、超楽しそう。CODや、BFの世界を仮想空間で体感しているようなものだ、さらに倒されればゲームオーバーとなりすべてがパー、その緊張感いなや凄まじいものだろう。しかし、ゲーム内で死んでも0になるだけだ。SAOみたいに死ぬわけではない。でも、ゲーマーにとっては最高の空間なのは間違いないね。勿論、外見を変えるわけだ。それが、ゲーム空間での遊びだけに終わるわけは無いよね。その世界では、人と喋りあい、踊りあい、時には仮想空間で夜を明かすなんてことも出来る。それが、何でもありの世界『オアシス』。

 今流行りのVRchatの進化版でもあると思った。VRchatというのは、今流行りの仮想現実世界を使ったコミュニケーションサービスのこと。巷では流行っているらしいね。自分は使ったことは無いけど、Youtubeの動画か何かで見たことがある。そのサービスも外見を自由自在に変えて、人とコミュニケーションをとることが出来るものなんだ。そして、仮想空間で夜を明かすという、男女コミュニケーションの果てをも体感できる。これは、花澤健吾先生のルサンチマンがそれにあたるかな。花澤先生も言及してらっしゃった。この作品は現実でモテない中年男性が仮想空間での女性との恋愛を描く物語だ。とそんなことは置いておく。

この映画の面白さは映画の中にちりばめられた数えきれないほどサブカルチャーたちである。これが、その予告だ。


映画『レディ・プレイヤー1』予告1【HD】

 この映像の中だけでも、『バックトゥーザフューチャーデロリアン、『AKIRA』バイク、『キングコングキングコング、『オーバーウォッチ』トレーサー、『機動戦士ガンダムRX-78-2、『チャイルド・プレイ』チャッキー、『アイアン・ジャイアントアイアン・ジャイアントが確認できる。勿論、映画の作中はこんなものではない。数え切れぬほどのキャラクタ、オマージュなどが私たちの胸をくすぐるのだ。もう、私は画面に釘付けだった。もう、その目は休まることのない。時に驚き、時にはクスリとさせ、時には綻び、他の人の目には、私はずっとリアクションを続けているみたいにも見えたであろう。かと言って私は1996年生まれの21歳だし、分かったものの方が少なかったと思う。多分この作品が本当にウケるのは、1970~80年代に生まれた世代であろう。作者であるアーネスト・クラインは1979年生まれの現在39歳だ。その作者と同世代に生まれ、同時にアニメや映画などの文化に触れてきた人間はああ、これこれってなる回数ってのは飛躍的に上がるんだろうな。だって始まりからVR空間への没入と共に流れるBGMはヴァン・ヘイレンの『Jump』当時の名曲だ。たとえ当時に生まれていなくとも絶対一度は聴いたことがある名曲だがな。その曲とともに、物語が始まっていく。最初っからテンションはMAXとなるわけだよ。


Van Halen - Jump

こうして始まる『レディ・プレイヤー1』に俺たちはどんどん 没入してゆくわけだ。

彼らが、仮想空間に潜ってゆくのと同様にね。

 この作品、アニメ、映画、ゲーム好きは絶対見た方が良い作品だと思うよ。俺は中盤のシーンで描かれるあらゆる作品のクロスオーバー、これが本当に魅力だった。例のガンダムのシーンだよ。日本のあの特撮作品とあのアニメ作品のコラボ、これが現代のCGで描かれるんだぜ。それもハリウッド。それをスピルバーグは実現させちゃうんだよな。レディプレの日本愛は凄まじかった。是非この感動を劇場で。次回に、ネタバレ込みの感想を描くよ。(2410)

21歳にして初めてタイタニックを真面目に見た(1)

タイタニック

 

 

 誰しもが、一度は必ず名前を聞いたことがある、誰しも一度は必ずあのあるシーンは見たことのある90年代ハリウッド映画の傑作だ。監督は、ジェームズ・キャメロンである。他に、彼の著名な映画を上げていくと、分かりやすいのはターミネーターシリーズやアバターが思い当たるだろう。最近は音沙汰がないが、アバター2の製作が忙しく、顔を出す暇が無いのであろうか。まあ、そういったことは置いておく。私は実に21年と8ヶ月生きてきた今日この日まで、タイタニックを最初から最後まで真剣に見たことが無かった。ちらっと目にしたことはいくらでもあった。今はもう無くなった日曜洋画劇場で流されていたのが目に留まったのかもしれない、また母がDVDでみていたのを横目に覗いたのかもしれない。しかしそれも、相当昔の記憶だ。ここ10年の記憶じゃない。それに、余ほどの映画好きでなければ同じ映画を何度も、何度も、何年も繰り返し見ないだろう(母は映画好きじゃない。だから、その記憶はずっと遠くのものだ。だけど、ずっと見たいとは思っていた。タイタニックの偉大さは映画好きじゃなくとも知っている、誰しもが感動した作品を挙げてみろと言われたら、この作品を挙げる。だからこそ、見ておかねばと思っていた。そんなときに、運も良く偶然と、午前10時の映画祭のオープニング上映に『タイタニック』が決まったのだ。私は、ちょうど良い、これを見に行こうと心に決め、そして昨日4/15に劇場の大型シアターで21年も前に公開された映画を見たのだ。席はほぼ満席だった、勿論日曜日だからこその満席っていうのも理由だと思うけど、20年も前の映画にこんなにも多くの人が足を運ぶのかと私は大いに驚いた。客席を見回すと、5,60代の方々が多かった。しかし中には1,20代の若者もいた。特に驚いたのが、中学生くらいの女の子の4人組だった。今のこの娯楽のありあふれた時代の中、昔の映像作品に親しむ姿勢を持っているということが素晴らしいことだと思い、彼らを尊敬したし、彼らを羨ましくも思った。そんなうら若きときに、大型スクリーンでタイタニックを見れたことに。彼らの価値観は大きく変貌したと思う。でも、そのくらいに感じるほど『タイタニック』の破壊力は大きかった。

感想

 これまでの自分の中の常識が一気にひっくり返されたと思うくらい衝撃的だった。タイタニックのそのすべてが美しく、そして果てしなく残酷だった。映画が終わったとき、私はその残酷さに席を立つことが出来なかった。全ての映画,音楽,小説などの創作物が陳腐に見えてしまうくらいに、タイタニックは完全無敵で、これに敵うものは存在しないとすら思った。しかし私は今でもあれを感動的な作品とは言えない、確かに心を動かされた。愛とは素晴らしいものだって思った、しかしそれはその映画の中の一つの物語でしかない。映画全体を覆うものに目を当てたとき、ジャックとローズの恋物語なんてものは一気に砕け散る。心に感じたのは、恋愛って素晴らしいではなく、そこの知れない恐怖だと私は思う。タイタニックは決して恋愛ロマンス映画なぞではない、あれはタイタニック号の沈没の中で描かれる人間たち全てにスポットライトが当たった究極の人間ドラマなのである。

 その一つが、社会階級構造の中に垣間見える人間模様である。映画『タイタニック』に登場する豪華客船タイタニック号。作中では総勢2200人が搭乗している。まさに、この船の構造そのものが、社会構造のそのものと全くの同じなのである。一番下にあるのは蒸気機関である。蒸気機関を動かす為に炭で黒く染まった作業着を身にまとった肉体労働者が、必死に木炭を火に投げ入れている映像が流れてゆく。そしてその上には簡素ベッドに横たわり、すこし小奇麗な格好をした中流階級のものたち、そしてその上一番高いところにはタキシードを身に包み、ドレスを身にまとい、優雅にワインを掲げる紳士淑女たち、彼らは上流階級にある者たちである。ローズは、自由に生きることのできない上流階級の生活に疲れ果て、果ては海に身を投げようとするのである。その時に、彼女の自殺を止めたのが絵描き志望の若者であるジャックである。それから、自由に生きるジャックに心惹かれていき、二人の関係が恋愛に進んでいく。タイタニック号が氷山にぶつかりパニック映画に変わるまでは、彼らジャックとローズの恋愛がこの映画の大きな主題になる。しかし、考えてみよう。身分違いの恋なぞど定番のジャンルでタイタニック以外でも幾らでも探せばあるのだ。だからこそ、タイタニックの恋愛にはとてもじゃないが惹かれなかった。確かに、純愛だ。だが、身分違いで更に純愛作品であるのなら私はフィッツジェラルドの描く『華麗なるギャツビー』の方が好きだ。ああ、こちらも映画化されており、ディカプリオ主演の身分違いの純愛作品なのでおススメです。タイタニック見た人は、ぜひこちらも見てください。あと、ライアン・ゴズリングの『きみに読む物語』も是非。

 

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 そして中盤氷山に衝突し船底に穴が開き、そこから水が入り込んでゆく。残念ながら、いや至極当然に水が蒸気機関室に入り込み、パニックと化します。しかし、船の船員は水の流入を防ぐために蒸気機関室の緊急扉を閉め始めます。例え、そこに人が残っていたとしても、バタバタと閉め始め、そこに残された下級労働者たちは無残にも閉鎖されたその空間で息も出来ずに死んでゆきます。そして、逆に上流階級にある人々だけに脱出口が用意されているのです。それは、緊急ボートです。また、酷いのがこの緊急ボート、計算上70人は乗れるはずなのだが、2,30人しか載せていないのです。所々に隙間があり、詰めればまだ人は乗れるはずなのに、皆が皆まるで呼吸を合わせるように詰めようとしない。牛ぎゅう詰めになることに、居心地が悪いのでしょうね。船が沈没しかねているのに、ただ身の保身しか考えない上流階級層の者たち。そのあともまだまだ彼らの冷たい心は表象し続ける。船が沈没し、多くのもが極寒の海に身一つで投げ出されているのだ。今彼らに近寄り、一人でも掬い上げれば、一人でも多くの命を救うことが出来る。しかし、彼らはそれを拒んだ。もし、彼らが救命ボートに集まりボートが転覆するようなことがあれば、自身の命すら危ぶまれるからだ。その中で、一人だけ声を荒げたものがいた。それは、マーガレットだった。彼女は言わば振興成金であり、今は上流階級に当たるが、それまでは中下級階層の人間だった。彼女だけが、「助けに行きましょう、今ならまだ間に合う」と言った。しかし、その声に賛同するものは一人もいなかった。果ては、救命ボートの船主から、「ボートの空席をもう一つ増やしたくなければ、声を出すのをやめろ」と言われ、彼女は口を紡いだ。そう彼らの心はまるで氷の様に冷たかったのだ。

また、階級層ごとに見える彼らの姿はローズの目を通したものであり、上流階級の者は皆閉鎖的であり、皆本音ではなく建前で会話しておりつまらないといった印象に映り、しかし中流層の者は、音楽戯れ、ビールをジョッキで飲みかわし、ダンスを踊るという自由で楽しい姿が彼女の目に映るのだ。そこには、未だに女性が優遇されていない男女不平等な社会的一面が垣間見える。上流階層に当たる人間は、皆ビジネス的な人間であり、高い立場から、労働者を奴隷のように働かせ大金を稼ぐことしか頭になく、その隣に控える女性というのは単なるプロマイドくらいにしか映っていないのだ。自由に生きることを禁じ、ただそこにいるだけで十分だと。藝術に目を向けず、勉学に目を向けず、今でいう資本主義的でつまらない世界しか彼女ローズの目には映っていなかったのだろう。そういった面で見れば、ローズの姿は今の男女平等社会の場にて、自由に生きる心豊かな女性のように描かれる。劇中で、ローズが部屋にまだ無名にあったピカソの絵画を飾っていたり、会食中にフロイトの心理学を持ち出したりしているのに、そういったものが垣間見える。

このようにタイタニックが描くものは、ジャックとローズの恋愛だけにと留まらず、近代の社会階級構造や、死ぬ間の人々の残酷さであったり、女性差別であったりと上げ始めるときりがない。そして、それを彩るのがジェームズ・キャメロン監督のつくる映像の迫力にある。そして、20年経った今見ても色落ちない凄さがそこにはあった。まだ一週間は午前10時の映画祭にて鑑賞可能だろう。是非、皆この凄さをシアターで体感してほしい。

宇多田ヒカルの楽曲解説1『桜流し』,『道』

 2016年、NHK連続TV小説「とと姉ちゃん」の主題歌である『花束を君に』、また「NEWS ZERO」エンディングテーマである『真夏の通り雨』を担当することを同時にして、同年4/4から音楽活動を再開した宇多田ヒカルの最近の新曲である「あなた」を聞いてみて、思ったことを書いてみます。

 

 初めて聞いたとき、感じたものは宇多田ヒカル自身の幸せが大いに伝わってくる楽曲だと思いました。そして聴く私たちも自然と幸せな気持ちになってくる楽曲であると。その楽曲から、生命力と、力強さも感じられます。以前の宇多田の楽曲には寂しさや、悲しさが積もっていましたが、音楽活動を再開してからリリースされた曲は、故・藤圭子への思いを謳った『真夏の通り雨』以外はその全ての楽曲にそういったものは感じられません。特に、再開後に発売された期間にして8年ぶりのアルバム「Fantome」の一曲目、その軽快なステップから始まる楽曲『道』は、彼女の人生の前進が感じられ、彼女の変わり始めた、その只中が大いに感じられる楽曲だと私は思います。

Aメロの詩は、

黒い波の向こうに朝の気配がする

消えない星が私の胸に輝きだす

悲しい歌もいつかは懐かしい歌になる

見えない傷が私の魂彩る         (道)

  黒い波というのは彼女の心理状態です。この詩ではその心理状態を乗り越え始めたその先にささやかな光が見え始めたことが分かります。そして、消えない星というのは、藤圭子さんのことを表しています。昔から、私たちは死んだら星になり、天から生きている者を見守っているというでしょう。消えない星が私の胸に輝きだすというのは、藤圭子さんが宙から彼女を支えてくれており、前に進む力をくれたのだと分かります。また悲しい歌というのは、当時製作していた楽曲に対するイメージのようなものであり、そのとき彼女への気持ちを歌に仕立てあげていたのでしょう。それは、「真夏の通り雨」のような母への思いを綴った楽曲だと私は思います。その悲しいイメージから作られた楽曲もいつかは懐かしいと感じられるような楽曲になるようにと捉えて新たな前向きな気持ちで楽曲製作に取り組んでいこうとしていることが読み取れます。そして、その気概は見えない傷であった母が私の魂を彩ってくれていると歌っています。この場面で既に、彼女にとって母という存在は、彼女を見守ってくれる存在へと変わっています。ここに、依然の楽曲との大きな違いがあります。

 「花束を君に」、「真夏の通り雨」の前にリリースされた楽曲である、エヴァンゲリオン新劇場版Qの主題歌にもなった『桜流し』では彼女は母に囚われている節が感じられます。母の過去の映像に思いを馳せ、悲しい場面を思い浮かべます。そして、早くして彼女の前から姿を消した彼女を受け止めきれず、まだ言い残したものもたくさんあるのに、もう二度と会えないなんて私は信じることが出来ないと、この頃はまだ現実を受け止めきれていなかったのです。しかしその歌詞の間、間にはeverybody finds love in the end と謳われているのです。日本語に訳すと、誰もが死ぬ最後には愛を見つけるとなります。これは、いわば、彼女の祈りであり、願いであると私は思います。母がいなくなるその最後であったとしても、彼女は幸せであったと願ったのでしょう。

開いたばかりの花が散るのを

みていた木立の遣る瀬無きかな

どんなに怖くたって目を逸らさないよ

全ての終わりに愛があるなら       (桜流し)

 そしてラストサビの4行には、悲しみと決意が込められています。

開いたばかりの花が散るのをみていた木立の遣る瀬無きとは、まだ永く生きれたはずの彼女が突然といなくなったのを知った私たちは悲しくて、辛く仕方がないということを表していますね。しかし、その後彼女はその死と向き合うことを心に決めるのです、そのすべての終わりに愛があるのだから、私たちは前に進むことが出来ると。そして、彼女は新たな『道』へと向かっていくのです。

 

下記の歌詞は道のAメロの続きです

転んでも起き上がる

迷ったら立ち止まる

そして問う、あなたなら

こんなときどうする      (道)

  このあなたは、母でしょう。あなたなら、どういう選択をするのと母に問いかけているのです。それから彼女は、母を心のたよりにしていることが分かりますね。

そしてサビでは、

私の心の中にはあなたがいる

いつ如何なる時も

一人で歩いたつもりの道でも

始まりはあなただった

It's a lonely road

But I'm not alone

そんな気分         (道)

  私の心の中にはあなたがいると歌っています。実に彼女の人生は歌と伴にありました。そして、そのルーツはあなたにあり、それは寂しい道であったが、しかし、私は一人ではなかったのだと、今はそんな気分に変わっていると歌詞に書かれていますね。そこには、いつでも彼女のそばには母の愛があったと確かに彼女は感じるようになっています。桜流しの最後の決意に謳われているように。

 そして、ラストサビでは、

どんなことをして誰といても

この身はあなたと共にある

一人で歩まねばならぬ道でも

あなたの声が聞こえる

It's a lonely road

You are every song

これは事実

 

私の心の中にはあなたがいる

いつ如何なる時も

どこへ続くかまだ分からぬ道でも

きっとそこにあなたがいる

It's a lonely road

But I'm not alone

そんな気分          (道)

 そして、最後のサビでは、これからの未来への決意が謳われています。どんなことをして誰といたとしても、あなたの声が私を支えてくれる、あなたは私のすべてだと、これは事実であると、これから何処へ続くか分からぬ道でも、きっとそこにあなたがいる、今はそんな気分だと。彼女は何度も反芻し、確認しています。桜流しでもそうですが、1番では、彼女とのこれまでの過去を語り、2番では彼女がいなくなった今、彼女を支えにして前へ踏み出していこうとする前向きな姿が歌われています。宇多田ヒカルさんにとって彼女の存在がとても大きなものだと感じられますね。

 

 そして、新曲である『あなた』では、このあなたは彼女の最愛の息子に置き換わります。長くなりそうなので、今回はここまでで、終わります。次は、『花束を君に』、『あなた』の楽曲解説、解釈をしていきたいです。この『花束を君に』とは、結婚し幸せな私が受け取った花束を母に渡してあげたいという解釈になります。この曲も、母へのメッセージソングになっているので、解釈を重ね曲への理解を深めていきたいです。また、『桜流し』はエヴァンゲリオン新劇場版Qの主題歌であることから、エヴァンゲリオンのストーリーとの関係性を鑑み解釈も重ねたいのですが、如何せん私がエヴァンゲリオンを見たことがないので、また見る機会があれば「エヴァンゲリオン」と「桜流し」を共に参照して語りたい。(2836)

就活の自由

 あなたは就活をしているの?と聞かれたら、していないって答えると思う。感覚的には、していないっていう感覚です。いや、しているのかな。一応、説明会にはぼちぼちとは行っています。別に、とりわけやりたいことがあるわけではなく、さらには働きたいわけではないので、残業時間が少ない点という面だけを鑑み、説明会に行っていました。その会社の選考会には参加しなかったけど。あとは、地方の銀行さんを2つや、3つ。でも、銀行って、大変だから止めた方が良いって聞くからあまり入りたい気はしない。でも、多分どの仕事に就いたとしても大変なのは変わりはないのだから、結局はその言葉はあまり意味を持たないのかもしれませんね。

 時々、私は検索します。「やめた方が良い仕事」とか。でも、そこに出てくるものは、殆どすべての仕事が含まれていました。SEはやめておけ、小売りはやめておけ、飲食はやめておけ、介護、看護はやめておけ、銀行、保険はやめておけ、商社はやめておけ。そんなに、皆やめろというのだ。多分、それだけ大変なのだ。多分それでも仕事を続けれる人はとても強い人なのだろうと思う。皆がやめておけというような大変な職業を続けることが出来るのだから。でも、全てが大変なのなら、やはり気の持ちようなのかな。あなたが、わたしが気の持ち様を変え、強くなれば、仕事にも耐えられる身体が作れるのかもしれない。

 大学の近くを通るとき、大学近くの駅を通るとき、リクルートスーツを来た学生が闊歩している。私は、そんな彼らを見るとよくそこまで頑張れるなと思う。そして、彼らが良い会社に入れればと思う。努力をした人間には報われてほしい。それがどのくらいの努力なのかなどは、傍から見た私は分からないけど。でも、彼らは自己分析を重ね、自分の心底を見つめ、企業を徹底的に調べ上げ、同業他社との違った強みなどを頭の中で積み上げていってる。

 でも、仕事選びって本当に大事だから、多分こんなところでだらだらやっていたら大学生のみんなに僕は後れを取るのだろうと思う。でも、それは大学生の中で後れをとるだけで、社会的には遅れは取らないのだと私は思う。私たち大学生は、大学という社会をものさしに就活を行っている。それを社会的なものさしに変えることで仕事選びという形は大きく変わると思うんだ。言ってしまえば、今の就活合戦は受験と変わらないんだ。結局私たちは縛られているってこと。でも、上手い人はその縛りの中で素晴らしき成績を残せる。でも、不器用な人って、その逆で一気に下まで落ちていくと思うんだ。社会は変わった方が良い、縛りのない自由な社会を。

『ハートクチュール』をお供に書きました。「Half moon」好き。

仕事とは

 就活が始まり、私の頭は仕事とは何なのか、私に合う仕事は何なのか、仕事は幸せを作れるのか、何故人は過労死するのかとそんな考えが頭の中をぐるぐると回ってました。こんな事を言うと人は怒るでしょうか、結局私の頭に浮かぶのは自分の思う仕事以外やりたくないと思うのでした。馬鹿野郎、自分の好きなことばかり出来るわけないだろうがと言われると思います。でも、自分がもし、自己にとって生産性のない、自分が無になる職業に就いたらどうなるでしょうか。毎日、8時間以上働きつづけ、その間仕事って何だろうかと、私は何故この仕事をしているのかと考え、そして私って一体何をしているんだろうっていう境地に陥いります。でも、お金が無いと人は生活はできません。その為、私は給料日のその日まで必死に働きます。そして、給料日になれば、ただそのお金に歓喜し、お金を下ろし安酒を飲みます。そんな生活が続いていくと思います。そして、多分いつの日かこんな生活に何の意味があるのだろうかと思うのだと思います。仕事に対して空虚な感じを抱き始めたら、もうその時はまずいのだと思います。でも、それでも働かなけれ生きてはいけないのです。

 もう一つ考えるのは、そういったことを考えずただ無心に仕事をすればそれでいいと思うことがこの問題の全ての解決法なのだろうと思います。そんな考える必要はないと。でも、それって何か違わない。仕事って私たちの人生の半分を費やすものです、それをそんなに考えなくていいなんて言ってはいけない。仕事は第二の人生だと思う。その第二の人生をどうすれば有意義に出来るか考えなければならない。だらだらと時間つぶしのように働く人生の何の意味があるのか、そんな風に考えてしまう自分が怖いから、ただ怖い。だからこそ、働くのが怖い。働くことに意味を持ちたい。持てるような仕事に就きたい。

友達

 情報通信技術の発達により、私たちの物理的距離は離れようと心理的距離は依然と変わら無くなった。勿論、これは友人間の問題だと思う。それが恋人関係とあれば、物理的距離は、二人の仲に大きな影響を与えるだろう。彼らが、目と目を合わし、身体を合わせたとき愛というものに肌身を通し、より一層触れることが出来るのだから。

 私は、いつも平日であろうと、休日であろうと時折、仲の良い三人組の仲間たちでゲームをしながらボイスチャットをして遊んでる。これが楽しいんだ。彼らとの距離は勿論離れてる。私たち3人ともに住む場所は異なっているのだから。それでも、ボイスチャットを通じて会話をすることもあり、私は彼らとの心理的距離間というものは学生時代の頃から変わっていない。それは心地のよい空間だった。どんなことも気兼ねなく話せる。私たちがする会話は、日ごろの生活から湧き出る小さな愚痴であったり、好きな楽曲、見ているアニメ、気になっているゲーム、またこれからの自分のことであったり、そんなことをゲームをしながらただ、ダラダラと話し続ける。それは、小さな幸せだった。こうして、仲の良い友人たちと繋がり続けることが出来るのも文明の利器の賜物である。人間関係ってすぐ消えてしまうものだと思うの。そこに、つながろうという積極性が無ければ、自然と消滅してしまう。学生時代の初期などよくあり得ることだ。最初は仲が良かったけど、付き合いが無くなるに連れて仲の良かった子から、双方にぎこちない笑顔を向け合う関係に変わってしまう。

 本当にすぐに消えちゃうから。だからこそ、大切にしたい。一つ一つのつながりを。そんなに多くのものは要らない。両の手ですくえるくらいで良い。私は中学から仲の良い友人は3人、高校からも仲の良い友人は2人しかいない、大学では思いのほか、たくさんいい人がいたから自分でも分からないかな。でも、多くの好い人と仲良くなれたのだから、その縁は出来るだけ大切にしたい。でも結局、仲の良い人と出会えるかなんて運だと私は思った。高校生の頃なんて、仲良くできる人が本当に居なくて文化祭はただただ苦痛だった。もし、あなたが周りの子と仲良くできないなと思ったら、その空間にはあなたと気の合う人がいないだけで、また違う場所に行ってみたらそこには仲良くできる気の合う人はいるかもしれない。だから、友達が出来なかったとしても、自分を責める必要なんてない。そこには、いなかった。それだけでいい。私はコミュニケーションが下手なんだ、そんなことも思うかもしれない。でも、コミュニケーションが下手だとしても、そんなことは関係なくあなたを分かってくれる人は分かってくれる。あと、そんなに多く入らないよ。あなたのことを分かってくれる人がいるのなら、それは一人でもいいと思う。(1152)チャーリー・プースを聴きながら。